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連載コラム 『医者の独り言』(神保 実)

第41回 栄養の話

 鈴木二郎先生は東北大学脳神経外科の教授で、もう亡くなられたが、世界的に有名な脳外科医であったから、まだお名前を覚えておられる方も少なくないと思う。この先生が生前私に話されたことだが、大学紛争は栄養不良のせいだというのである。

 人間の脳は、生後1〜2年の間に最も発育する。その良好な発育には栄養が大切で、栄養状態がよくないと発育はおさえられ、とくにミエリンの生成がよくない。ミエリンは神経線維を取り囲むものであって、神経線維を電線に例えるなら絶縁体に相当する。これがうまくいかないと、神経伝導回路はショートしてしまう。つまり、脳の機能が乱れる。昭和20年は敗戦の年であり、食糧事情も劣悪であった。このころ生まれた赤ん坊は栄養状態もよくなく、ミエリン生成も不完全であったろうから、成長しても思考が短絡的である。その彼等が、昭和四四年の安田講堂事件に代表されるような大学紛争を起こした。すなわち、大学紛争は乳児期の低栄養が遠因である。

 もちろん、これは冗談である。鈴木教授も大学紛争では頭に来て、このような新説を披露されたのだろう。先生は、一面、大変ユニークな方で、大まじめにこう言われると、私は不覚にも信じそうになった。しかし、今年、連合赤軍事件の最終判決が出たが、事件経過を改めて読んでみると、その無意味な残虐さにおいて鈴木学説が当たっている気がしないでもない。

 この学説の当否はさておくとして、乳幼児期の栄養がその人の寿命に影響するのは確かだと思う。何事も最初が肝腎で、神経系の場合は特にそうである。一昔前になるが、新聞で昭和ひとケタ生まれの人は血管系が弱いという記事を読んだことがある。ある疫学統計に関する記事であったが、その説明として、発育期の食糧事情の悪さをあげていた。私は昭和八年生まれでいささか気になったが、今さらどうしようもないことである。

 敗戦の昭和20年、私は小学校の6年であった。食糧事情は悪かった。代用食として、じゃがいも、さつまいも、かぼちゃ、大豆(豆かす)などを食べた。肉類はほとんどお目にかかれなかった。否応なく、菜食主義である。おかげで私の血管系はもろくなってしまっただろうか。

 私はかねがね思っていたが、栄養学がすすめるものは、時代と共に変わってくるのではあるまいか。戦後はさかんに肉食をすすめたはずである。人間は肉と野菜だけたべていればよい。肉と魚では、タンパク質としては肉の方が優れている。ひどいのになると、日本が戦争に負けたのはもっと肉を食べなかったからだ、というのもあった。ところが最近は、和食への回帰傾向がみられる。たしかに日本人の肉の摂取量は増えたが、欧米人と比べて、肉食の弊害をあげつらうほど増えているとは思えないのだが。そうなると、私の戦争中の代用食もカロチン、食物繊維に富んだ優れた健康食になってしまう。肉がないのが玉に疵である。栄養学は景気と同じで循環するものだろうか。そのうち、再び肉食をすすめる時代が来るかも知れない。

(1993年)

 

第42回 地球温暖化

 地球の温暖化が問題になっている。地球の表面に炭酸ガスが蓄積し、そのため、地熱の放散が妨げられる。つまり、温室効果によって地球の気温があがってくる。気温があがれば極地の氷が溶けて海面が上昇する。国土が海抜より低いオランダのような国では、洪水の危険を真剣に心配しているようである。

 炭酸ガス蓄積の元凶は、人類の産業活動である。炭酸ガスの排出を抑制するよう努めること自体、悪いことではない。しかし、このように地球規模での心配は杞憂ではないかと思う。温暖化問題に関する私の知識は新聞のそれを出ないが、かねてから、素朴な疑問を持っていた。

 理化学辞典を引くと、CO2の比重は、空気のそれを1とすると、1.529である。空気より重い。地下工事の現場で酸欠事故が起こることがあるが、これはCO2が底の方に沈殿して、それに気づかずに人間が降りていくためだろう。次にCO2の水への溶解度であるが、水一体積に溶けるCO2の体積は、20℃で0.878である。これはO2、N2と比較するとケタ違いに大きい。O2の場合、20℃で0.0311、N2はこれ以下である。小学生がよくやる実験であるが、皿に水をはって、燃えているろうそくを立て、それにコップをかぶせる。ろうそくの火が消えるとともに、コップ内の水面が上昇する。O2が消費され、生じたCO2が水に溶け、コップ内の気圧が減少したためであるが、これによってCO2の溶解度を実感できる。

 温暖化は杞憂だという私の論拠は、この二つの科学的事実に基づいている。いささか心許ないが、説明はこうである。

 人類がどんどんCO2を排出すれば、大気中のCO2濃度は高まってくる。CO2は空気より重いのであるから、大気中に漂うCO2は、重力の法則に従って、必ず地球上に落下してくる。風が吹こうと、台風がこようと、結局、いつかは落下してくる。ところで、地球表面の70%は海である。陸地は30%で、地球はまさに水の惑星である。落下してきたCO2は、70%の確率で海面に接触して溶ける。溶解度はCO2の分圧に関係するだろうから、大気中のCO2濃度が高くなって、分圧が上昇すれば、さらに溶けることになる。海はすべてを浄化するといわれるが、大気をも浄化するのである。もちろん、飽和点に達すれば、それ以上は溶解しないが、海面の表面面積は3億6800万平方キロメートルで、平均の深さは3.6キロメートルである。溶解能力は無限と言っていい。人類は、いくら産業が発達しても、飽和点に達するほどのCO2を産生できるだろうか。

 地球の気温が上昇しているのは事実としても、その原因はほかにあるのではあるまいか。もしかすると、単なる気象上の平常範囲内の変動かも知れない。

 CO2蓄積による地球温暖化の危機が叫ばれるようになったのは最近のことである。しかし、地球上でCO2が蓄積する機会は、今までにいくらでもあったはずである。例えば有史以来の火山の大噴火である。最近のピナツボ山の噴火では、どのくらいのCO2が吹き上げられたか想像もつくまい。また今世紀になって二度経験した世界大戦は、大規模なCO2製造行為といえなくもない。しかし、そのために地球の温暖化が問題になったことはなかった。

 環境論者が常に問題にするのは、きまって産業公害による温暖化である。産業に対する倫理的批判として正しいかも知れないが、本当に科学なのだろうか。世の中には「流行の科学」があるような気がする。

(1993年)

 

第43回 尊厳死 アンケート調査への疑問

 先頃発表された厚生省の「末期医療に関する国民の意識調査等検討会」が出した報告書を読んだ。

それによると、自分自身が痛みを伴い、治る見込みがなく、死期が迫った状態になった場合、単なる延命医療を「やめたほうがいい」「やめるべき」は計75%あった。

やめ方については「痛みなどの症状の緩和に重点を置く」が六七%と最も多く、以下「積極的な治療は行わず、自然に死期を迎えさせる」「積極的な方法で生命を短縮させる」の順。その積極的方法を行う場合の条件としては「痛みがひどく見るにしのびない」「死が目前に迫っている場合」が多かった。

 また、植物状態に陥った場合には、80%が延命医療を拒否すると答え、その治療を中止する時期は「死期が迫っていると判断された時」「意識不明で回復しないと診断された時」が主であった。

 こうしたアンケートを読むたびに感じるのは、ある種のむなしさ、そらぞらしさである。

 厚生省の調査は、20歳以上の男女五千人を対象にしているが、ほとんどは健康人であろう。健康なときには、得てして建前論が通用しがちである。不治と分かっているのに、激痛の苦しみ、挙げ句の果てにはスパゲティ症候群では、とてもかなわん、と想像する。

 しかし、実際にそういう状態になった時の本音が、健康時の建前論と一致するかというと、必ずしもそうではない。生への執着は思ったよりも激しいもので、人間なら当然と思う。うかつにリビングウィル(生前の意思表示)を明らかにすべきでない。

 人間の末期を飛行機の着陸に例えてみよう。飛行機は、徐々に高度を下げ、滑走路をすべって停止する。高度を下げ始めたときはこの患者の行く末が分かった時で、停止は死である。

 患者は徐々に衰弱していくが、それが毎日続く。がんの場合は、1、2ヶ月に及び、植物状態なら五年以上にもなる。この間に「治る見込みがなく、死期も迫った状態」とか、「意識不明で回復しないと診断された時」を判定するのは極めて難しい。

 判定が早過ぎれば人道問題に抵触する。文字通り死が目前に迫っているなら、どんな患者でも最終的には意識を失うから、あえて尊厳死を実行する必要もない。医者の心境から言えば、いつ引導をわたそうかは、降下しつつある飛行機からいつ飛び降りようか思い惑うのに似ている。停止寸前に飛び降りるなら、止まるまで待っても大差はない。

 元駐日米大使の故ライシャワーさんは死に臨み、自らの意思を医者に伝え一切の治療を拒否したそうだ。これが典型的な尊厳死であろう。ただし、凡人には難しい。ジタバタして死んでも一向にかまわないと思う。それを受け止めるのが医者の仕事である。

(1993年)

 

第44回 過労死 

 過労死という言葉がはやっている。マスコミの造語だろうが、このようなセンセーショナルな言葉を使って、世間を揺さぶるのはあまりよい趣味とは思えない。海外にも伝わっているようで、フジヤマ、ゲイシャならまだ無邪気だが、ウサギゴヤ、カロウシでは日本人といえども、うんざりしてしまう。

 冷静に考えるなら、医学的には、過労死はあり得ない。何か病名がついているはずである。思いつくままに肺炎、心筋梗塞、脳卒中、くも膜下出血などが挙げられる。糖尿病、腎炎などが悪化して死ぬ場合もある。

 純粋に過労死と言われると山の遭難事故を思い浮かべるが、この場合も餓死か、凍死で、普通の社会では起き得ないことである。

 しかし、過労死という言葉を医学的に、あげつらうのは無意味である。なぜなら過労死とは、過重な仕事によって、疲労のあまり病気になり、または持病が悪化して死亡することである。言葉の意味の比重はもっぱら過労にかかっており、死ではない。この意味ではこれは労務管理上の語彙であり、医学的なものではない。

 過労死された方が、会社員の場合、管理上問題があったとして、遺族が会社を訴えることができる。自営業者の場合はそれもできない。しかし、過労死を裁く裁判官は大変である。自信を持って判決できないのではあるまいか。

 まず、病気を起こすに十分な過労がどの程度のものか決めようがない。仮に同じ程度の過労があったとして、ある人は倒れ、ある人は耐えるわけであるから、その人の健康度も関係してくる。

 さらに会社側が、その過労を強制すべく圧力をかけたとしても、当人も奴隷のごとくそれに従ったわけでもあるまい。自分もその仕事が好きで無理したのだろう。社内の出世を期待して何が悪い。でもそうなると過労の責任の一半は当人にもあることになる。

 我々は「何々のために働く」のが好きである。かつては、国家のために働いた。戦争に負けてからはそれがそのまま、会社のためと置き換わって今日の繁栄を築いた。会社はそれに報いるのに年功序列と終身雇用をもってした。

 ところが、バブルがはじけて不景気になると、この日本的家族共同体的慣習も危うくなってきた。経営首脳が解雇を口にする時代である。こうなると、社員の忠誠を以前ほど期待できないことになる。

 いよいよ、自分のために働くときが来たのではあるまいか。繁栄を享受するとはこういうことであろう。
当然、過労死もなくなると思う。

(1993年)

 

第45回 理想的な健康法 

 脳卒中というと、普通、脳出血、脳梗塞を指す。最近よく話題になるくも膜下出血もこれに入る。脳卒中にも程度があって、重いものは寝たきりになるが、軽いものでは五体満足で、歩いて退院できる。

 比較的軽かった脳卒中患者から「今後、日常生活でどんなことに注意したらいいでしょうか」と、よく聞かれる。

 好きなようにやってもいいですよ」とも言えないから、あれこれ説明するのだが、どうしても抑制的な生活を勧めることになる。

 例えば、血圧をチェックし、塩分は控えめに、バランスの良い食事を腹八分目に、過労を避け、規則正しい生活を心掛け、睡眠時間は十分にとり、適度な運動、禁煙、酒は程々に、物事をクヨクヨ考えずに、のんびりやりましょう、等々である。

 このうち血圧のチェック、塩分の制限などは多少、医学的な薫りがするが、ほかは極めて常識的なことだ。私自身もう少し気の利いたことを言えないものかと、話しながら白けてしまう。

 患者の方も、「これさえ守れば大丈夫」といった秘策を期待しているのだろうが、そんなものはない。

 もっとも、患者は年配の人が多く、脳卒中が軽くて済んだという幸運が何よりの薬になり、以後は節制第一の生活を送っているようである。だが、外来で詳しく聞いてみると、内実はかなり克己的な日常生活である。

 もし、健康な人に「将来、脳卒中にならないためにどんな生活をしたらいいか」と聞かれても、私は同じことを話すであろう。そして、その人が私の話を忠実にまもったなら多分、脳卒中にはならないだろう。しかし、その人の人生はおよそつまらないものになってしまう。

 医学的に好ましい人生とは、生気のない人生といえる。人生にはクレイジィーなものが必要であり、クレイジィーなものは大体において不健康的である。

 世を挙げて健康志向の時代。医学情報が氾濫し、人間ドッグのデータに一喜一憂している。そして多くの場合、医学のアドバイスは抑制的、禁欲的である。あれをしてはいけない、これをしてはいけないである。その間をかいくぐるようにして長生きしようとするのもご苦労な話だ。

 私は、個人の寿命を決める最大の因子はその人の素質だと思っている。もって生まれたものである。いわば運命であるが、このことは将来、遺伝子工学的に確かめられると確信している。

 禁酒、禁煙、ジョギングなどの後天的健康法も、長生きに対する効果はたかが知れている。逆に不節制をあまり気にする必要はない。なぜなら、我々は不節制も「程々」にしかできないからである。必ずブレーキがかかるものだ。

 むしろ、ある健康法を信奉して、それに打ち込むことの方が危険である。ダイエットで体を壊すのがその好例だ。理想的な健康法などない、と知るべきである。

(1993年)

 

第46回 車いすと住宅

 日本の住宅が狭いことは世界的に有名である。逆に欧米の住宅は広い。こんなに広くするのは無駄ではないか、と思うことさえある。それも金持ちの邸宅のことではない。中流階級の家である。

 欧米人に、日本のワンルームマンションを見せると驚かれる。こんな狭いところに人が住めるのか。住空間に対する考え方が、われわれと根本的に違うのだ。

 日本人はあまり広いところには住みたがらない、という意見がある。手を伸ばすと茶箪笥に届くぐらいの部屋の方がくつろげる。だだっ広いと何か落ち着かない。茶室のように、出入り口も定かでない狭い空間を作って楽しんでいる、等々である。

 こうなると、まさに日本人の生活感覚の問題になってしまう。が、平均的住宅に住んでいる平均的日本人は「できればもっと広い方がいい」と思っているに違いない。それでは、どのくらい広ければいいのか。広ければ広いほどいいでは、目安にならない。例えば車いすが支障なく動ける広さを最低基準にするのはどうだろう。

 試みに、私の病院にある車いすの大きさを測ってみた。幅61センチ、長さ97センチ、高さ86センチあった。この車いすが自由に動けるとなると、廊下の幅は1メートル以上なくてはならない。広さだけでなく、段差もなくさねばなるまい。バス、トイレも格段と広くなる。

 廊下とトイレだけというわけにはいかないから、否応なく部屋も広くなる。6畳の茶の間は、車いすが入るにはちょっと手狭な感じである。団地サイズの畳は、住宅政策百年の計を誤ったものと言える。

 荒唐無稽なことを言っているのではない。現に、高齢者や障害者が住宅を新・改築する場合、車いすの使用に備えて、補助金を出している自治体がある。このバリアフリー(障壁なし)住宅づくりへの支援制度は、高齢者のみならず、若い世代にも条件が合えば適用したらいい。

 我々は、いつ車いすのお世話になるか分からない。いざとなったとき、家で車いすの生活ができるとなれば、その安心感は大きい。寝たきりは嫌である。欧米では寝たきり老人が少ないといわれるが、車いすの普及も一つの理由であろう。

 こうしたバリアフリー住宅が住宅づくりの標準≠ノなれば、日本の住宅は確実に拡大する。さらに環境が整ってくるので、在宅の看護、医療も充実するはずである。医療費の削減にもつながる。

 猛烈なスピードで迫り来る超高齢化社会。長寿を喜び、豊かさを実感できる国をつくろうとするならば、行政はお年寄りや障害者に優しいこの住宅への公的助成にもっと力を入れるべきだと思うが、いかがだろうか。

(1993年)

 

第47回 医者の味覚

 探偵小説家として知られた故木々高太郎氏は本名林髞といって、本業は慶応大学医学部の生理学の教授だった。パブロフの弟子で、条件反射の大家であった。

 条件反射というのは、例えば、犬に食事を与える時、同時にベルの音を聞かせる。これを何十回と繰り返していると、最後にはベルの音を聞いただけで、犬はよだれを流すようになる。ベルの音と犬の唾液分泌は、本来関係ないはずであるが、このように条件付けられてしまう。

 その木々高太郎氏が、医者の味覚について興味あることを書いている。医者というのは、栄養があるとなると、その食べ物をおいしいと思うようになるというのである。

 栄養があるというのは、客観的データに基づいている。一方、おいしいというのは、個人の主観である。両者が必ずしも一致するわけではないが、医者の場合、職業意識から、両者が条件反応的に結びついてしまう。

 職業柄とはいいながら、悲しい習性である。ただし、逆は成り立たない。これはおいしいとなっても、だから栄養があるとは思わない。犬がよだれを流してもベルが鳴らないのと同じである。

 確かに医者は、自分の感覚を、頭でねじ曲げるところがある。私の朝食がいい例だ。

 毎朝、牛乳500ミリリットル、はちみつ50ミリリットル、レモン汁2個分、卵1個をミキサーにかき混ぜて飲むだけである。もう10年以上も続けている。

 自分ではまあまあの味だと思っているが、一般受けしないようだ。家の中でも普及しない。栄養学的には優れていることは、栄養士のお墨付きである。だからこそ、10年も続いている。これも一種の条件反射だろう。

 最近、話題の栄養ドリンクが、内容的に私の朝食に驚くほど似ていることに気がついた。人間、考えることは同じか。それとも、私が以前どこかに書いたことがあるから、そこからアイディアを得たのではあるまいか、とひそかに疑っている。

 『かじるだけで栄養が取れる』と宣伝している栄養食品がある。宇宙食品もある。米国ではビタミン類の乱用が問題になっているようである。

 私は、このような栄養だけを考慮した商品が出回るのには、反対である。だが、考えてみると私の朝食も、これらの商品と同様である。

 木々高太郎氏がそこまで考えたかどうか分からないが、私の条件反射的朝食も、そろそろやめようかと思っている。でもそうなると、10年も続いた習慣を変えるわけで、今度は女房が大変である。                                          

(1993年)

 

第48回 バビンスキー反応

 簡単な実験を一つやってみよう。

 何か、とがった物を用意する。あまり鋭い物でない方がいい。箸ぐらいが適当である。それで、自分の足の裏をこすってもらう。こすり方は、かかとの部分から、土踏まずを避けて、皮膚の硬いところを、足の指の方に向けてこすり上げる。

 少し強くこする方がよい。するとくすぐったくて、足をつぼめようとする。つまり、足の指を5本とも曲げ、足を丸めて、足の裏がなるべく狭くなるように反応するはずである。

 お互いに、こすり合ってみる。足はよく洗ってからやった方がよい。臭いと冷静な観察が妨げられる。赤ん坊にはやってはいけない。足の裏を傷つける恐れがある。

 足をつぼめ、丸めようとするのは正常な反応である。ところが、半身麻痺の人では、逆の動きが見られることがある。つまり、足の親指が反り返る。他の指もつぼめようとせずに、逆に開くような動きをする。足が開いてしまうのだ。

 これは、脳の病変を診断する大変重要な検査で「バビンスキー反応」と言われる。生まれたての赤ん坊では、正常でもこの反応が出る。まだ脳が未完成だからである。

 くれぐれもいっておくが、赤ん坊の足をこすってはいけない。こすらなくても、しばらく観察していると、この反応が見られることがある。

 なぜ、このような反応が起こるかの説明が面白い。

 ヨーイ、ドン、で一気に走り出すときを想像してもらいたい。裸足の方がよい。腰を曲げ、膝をまげ、足はしっかり地面を踏みつけるということは、親指は反り返り、他の指も開いて、滑らないようにできるだけ足の接地面積を広げようとする。

 大昔、我々の祖先が、まだ四つ足の動物だったころ、獣に襲われたときも、同様にして逃げたに違いない。逃げるときには、足の接地面積を最大限に広げなければならない。ひづめがあっても、筋肉の動きは同じである。 

 このような動物の反応が、進化した我々にも受け継がれている。しかし、健康なときは、脳の奥深くしまわれて、出てこない。ところが脳を病むと、抑えが取れて、解放され、バビンスキー反応となるわけである。

 我々が獣に襲われる恐怖を味わうことはない。その代わり、くすぐったいとか痛いとか、人体に不愉快な刺激が、この役割を果たす。足の裏をこすって誘発されるのは、このためである。

 従って、女性が痴漢に襲われたとき、ハイヒールを履いたまま逃げるのは、先祖の教えに背くことになる。裸足で逃げるべきである。                                          

(1993年)


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