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連載コラム 『医者の独り言』(神保 実)

第31回 湾岸戦争偶感

 人間年をとってくると、自分の死を、漠然とながら、現実的なものと感じるようになる。「漠然」といったのは、現時点では、死の原因となるものが降りかかってきていないからである。しかし、その原因がいつ発生してもおかしくない年齢である。

 患者が手術を受ける。手術の大小にもよるが、大手術となると、十分納得して受けるにしても、手術までの日々、患者は自分の死を考えざるを得なくなる。手術が成功するであろう期待は大きいし、だからこそ手術を受ける訳であるが、「もしかすると、俺は……」と、一瞬、死の影が脳裏をかすめることがあると思う。これは誠に現実的な死の予感である。

 このように、いわば、死を「迎え撃つ」経験は、平和な社会では、手術を待つ患者以外では稀だと思う。自殺は、自ら死に向かってよろめいていくのである。交通事故は、死の訪れがあまりに瞬間的である。また、がんの末期で、否応なく、死に向かって日々を過ごすのとは違う。刑の確定した死刑囚の心境とも違うと思う。

 私が何故こんなことを書くかというと、湾岸戦争のテレビで、若い兵士たちの屈託なげな顔をみていて、ふと思ったからである。戦場は残酷な現実である。例えば、地雷を踏んでも、過失でもなければ事故でもない。なんせ、相手はできるだけ踏ませるように埋めておくのだから。廻りに網を張って、危険、立ち入り禁止と警官が立っているわけではない。どんなに用心しても、明日は死ぬかも知れない。彼等はそのことを十分知っているはずである。それでも屈託のない表情に見える。

 それは、彼等が希望を持っているからだろう。「俺は死なない。みんな死んでも俺は例外だ」という楽観論である。これがなければ、とても戦場に赴けるものではない。

 この楽観論と死の恐怖が同居している点、どこか、患者の心理に似ているのではあるまいか。誤解しないでほしい。あくまで「似ている」といったのである。私は患者を殺すために手術をしているのではない。

 考えてみれば、数十年前、日本でも多くの若者がこのような経験をもった。爾来、平和国家で、我々の日常生活からこのような感覚は失われた。もちろん、ないに越したことはないが、湾岸戦争を対岸の火事と見るのは粗忽である。日本の今日の経済的繁栄は、朝鮮戦争、ベトナム戦争の犠牲者の上に成り立ったといえなくもないからである。

(1991年)

 

第32回 脚気

 吉村昭氏の『白い航跡』を読んだ。上下二巻からなるが、下巻のほとんどが、主人公高木兼寛の脚気との戦いに費やされている。作者独特の抑制の利いた筆致で書かれているのが反って迫力を生んでいる。

 当時(明治17年頃)、日本の軍艦が一航海すると、乗員の30%以上が脚気にかかったそうである。これじゃ戦争できない。高木は、その原因が乗員の食事にあると看破して、壮大な実験を企てる。遠洋航海に出る乗員に、自分が工夫した献立を強制したのである。その結果、航海中、脚気の患者が劇的に減った。画期的なことなのであるが、その食量表をみると、特別のことはなく要するにバランスのとれた食事に過ぎないようである。つまり、当時日本人がいかに偏った食事をしていたかである。白米大食主義である。兵員には1日6合の白米が与えられていた。おかずが粗末だが、1日6合も飯を食ったら、おかずの入る余地もなくなるだろう。白米に胚芽がついていないから、ビタミンB1はとれない。その上、ビタミンB1は糖代謝に消費されるから、白米を過食すれば、容易に欠乏症になってしまう。しかし、これは今日の説明であって、当時ビタミンという概念はなかった。鈴木梅太郎がオリザニンを発見したのは明治44年である。

 この小説を読むと、疫学的研究に基づいて人を説得するのがいかに難しいかよくわかる。高木の業績は日本ではなかなか認められなかった。陸軍が脚気細菌説をたてて頑強に抵抗した。陸軍と海軍の対立である。陸軍の急先鋒が森林太郎(鴎外)軍医総監であったのも面白い。このころから、陸軍には権威主義的な体質があったようだ。

 ところで、脚気は江戸時代からポピュラーな病気だったそうである。3代将軍家光、13代家定、14代家茂等が脚気で死んでいる。でもそうなると、江戸時代を通して、古人の知恵で、理由はともかく、経験的に、白米の大食は身体によくないという養生訓が、何時からとなく世間知として普及してもよかったのではあるまいか。現に、脚気の原因は米にあると断じた漢方医がいたそうである。なかったところをみると、やはり日本は貧しかったのである。銀メシを腹一杯食うのは庶民の夢だった。身体に毒と分かっていても、この誘惑には打ち勝ち難かったのだと思う。 

(1991年)

 

第33回 脳死と臓器移植

 立花隆氏は、日本人の死に対する社会的通念を次のように述べている。日本人は、「基本的にはアニミズム信仰の民族である。このような日本の伝統的カルチャーの中からは、人が死んだ後、遺体をただちに、(伊藤栄樹前検事総長のように)ゴミとみなして、(アンデスの聖餐事件のように)食べてもよいし、切り刻んで利用してもよいという考え方は出てこない。少なくとも、遺体に手をつけたり焼いたりする前に、みたまを肉体から完全に分離してやる時間が必要なわけである。このような生死観からは、脳死になりましたので、早速、なるべく早いうちに移植させてくださいと医者にいわれても、なかなかおいそれといい返事が返ってこないことになるわけである。日本で脳死の社会的受容がなかなか進まない根本原因は、このあたりにあるのではないだろうか」。

 カッコ内の文章は私が挿入したものであるが、まさしくこの通りだと思う。患者が亡くなって、遺族に病理解剖を申し出るときの心苦しさ。また、「今まで苦しんだのだから、もうこれ以上苦しい思いはさせたくない云々」の遺族の言葉などがこのへんの事情を物語っている。理屈でないから説得も難しい。

 しかし、このような民俗信仰は、キリスト教におけるバイブルのようなテキストを持っているわけでないので、時代の流れと共に希釈されてくる。今日のように、脳死が社会問題になってくると、その希釈化は更に加速されると思う。

 国内で臓器が得られないので、やむを得ず、外国に移植手術を受けに行く人がいる。これは日本医学の恥だろう。また、日本人の生死観に固執すると、これは自家撞着の行為となってしまう。外国人の臓器なら、脳死状態からとってもいいとはいえないだろう。生体からの臓器移植が盛んになりつつあるが、これはあくまで過渡的な事態で、定着してほしくないと思う。私には、かえってむごいことのようにも思われる。

 よく、キリスト教の倫理では、霊肉二分説で脳死問題も簡単に割り切れるといわれるが、向こうでも、脳死状態からの臓器摘出にはかなり抵抗があると聞いている。人間の感情は、洋の東西でそんなに違うものではない。日本人だけが特異なわけではない。我々も何処かで割り切らねば、いたずらに百年河清を待つことになってしまう。 

(1991年)

 

第34回 シベリア紀行(1) 車外の風景

 我々の年代では、若い頃ロシア文学に親しんだ人が多い。ロシア文学はシベリア抜きにしては語れない。そのため、シベリアに対しても何となくロマンを感じている。私もその一人である。以前から、いっぺん、シベリアを横断してみたいものだと考えていた。今回、第九回欧州脳神経外科学会がモスクワで開かれ、これに出席する機会を得たので、その帰途、永年の夢を実現することにした。

 モスクワからハバロフスクまで、8500キロ、停車駅50、6泊7日の鉄道旅行である。途中下車しない。この計画は少々無謀だったようで、ロシア人さえびっくりしていた。

 モスクワを6月28日の午後2時に出発した。暑い日だった。いよいよシベリアの大自然をと意気込んだわけだが、沿線はすべて森林で、見通しがきかない。白樺、ヒマラヤ杉、松などを見分けることができたが、圧倒的に多いのは白樺で、お陰で、2日にわたって、白樺の木をタップリ見せられた。まだこれしか来ていないのかと地図を見ながら憮然としたのはこのころである。シベリア鉄道はウラル山脈に突入しない。その南端を迂回する。したがってトンネルは少ない。全行程で短いトンネルが4つしかなかった。

 3日目、ようやく森林がきれて、草原があらわれる。森林はブロックを形成し、その間に広い緑の草原が広がる。地平線まで一望できる。多分牧草地なのだろうが、家屋は点在するのに、家畜はほとんど見かけない。

 4日目、丘陵地帯にさしかかる。低い丘がウネウネと続く。森と草原に覆われているが、草原は咲いている花によって、赤紫、黄色を呈する。列車は丘陵の間を縫うように蛇行するが、高いところを走ると、一大パノラマが展開する。無限の広さのゴルフ場をご想像願いたい。イルクーツクには午後9時半頃着き、夜半バイカル湖を通過した。残念ながら、湖面にはえる月影を見ただけである。肌寒く、吐く息が白い。

 5日目、ようやく山が見えてきたが、いずれも低い。相変わらず、森と草原の連続であるが、草原の様子が今までと一寸違う。よく見ると、草の間に埋もれるように、水たまりや小川がある。この辺は湿地帯だったのだろう。木一本生えていない丘陵が延々と続くところがあった。奇観である。冬なら絶好のスキー場だろう。白樺が広範囲にわたって枯れ、白い幹だけが残っているところもあった。総体、緑は豊富なのだが、何か面白味に欠ける荒涼とした風景がハバロフスクまで続く。ハバロフスクには7月4日の午後早く着いた。やはり暑かった。 

(1992年)

 

第35回 シベリア紀行(2) 車内の生活

 シベリア鉄道は全線電化され、複線である。列車は18両編成であった。我々が乗った車両では9室あり、1室4名、上下二段のベッドがある。トイレは二つ、水は豊富に出る。ここで身体を洗ったりするようだ。食堂車は、一応レストラン風にアレンジしてあるが、台所兼食堂の趣である。ウエイトレスも普段着で、我々のそばで大きい包丁で盛んに黒パンを切っていた。メニューは、ハンバーグ、ソーセージ、ピラフ、スパゲッティ、ボルシチなどから選ぶが、量的には充分であり、味もまあまあだった。日本人なら、黒パンとボルシチで充分であるまいか。値段は6〜7ルーブル。太ったおばさんが金属容器に入った朝食を車内販売していたが、これが3ルーブル。銀行で両替すると、1ドル27ルーブル。1ドル140円とすると、1ルーブル約5円になる。従ってめちゃくちゃに安いことになるが、国の経済機構が違うのだから、このような比較は意味がない。

 旅の無聊を慰めるためか、酒を飲む。それも朝から飲む。類は友を呼ぶと言うが、私に親和性を感じたのか、3回お相伴にあずかった。魚の燻製、ソーセージ、キュウリなどを黒パンにのせて肴にする。浅葱を丸かじりする。刺激のある味とウオッカがよく合う。

 問題はウオッカの飲み方である。コップに三分の一くらいついで、水を飲むように一気に飲む。これには参った。私も一気に飲まざるを得ない。コップが足りないので共用である。私がチビチビやっていると他の人が飲めないことになる。2、3回やると、急速に酔いがまわってくるのが自分でも分かる。同室のロシア青年にウオッカを飲ませたことがある。コップにつぐと一気に飲む。またつぐとまた飲む。さすがに3杯目はもう結構といっていたが、この勇み肌の好青年、ロシア風の飲み方は心得ていたが、身の程を知らなかったようだ。翌日ゲロゲロやっていた。こうやって朝から酒を飲むと、そのあと一眠りしても、午後は体がだるく、ベッドでごろごろしていた。

 私はロシア語は皆目分からない。彼等にも英語はほとんど通じない。意思の伝達はもっぱら身振り手振りである。でもロシア人はみんなおおらかでいい人間だった。ハバロフスクについて別れる時は淋しかった。1週間着のみ着のままで通した。どういう風体になったかご想像にまかせよう。日ソ親善友好に若干寄与したと思っているが、少し疲れた。

(1992年)

 

第36回 シベリア紀行(3) 広さについて

 ハバロフスクから新潟まで飛行機で一時間半程である。新潟から新幹線で東京まで帰った。途中、越後の山を眺めたが、それまで平原ばかり見てきたせいか、見慣れた風景なのに、改めて新鮮な印象を受けた。日本の自然の特色は山である。織りなすように続く山々は、特に新緑の候には、見飽きぬ美しさがある。

 しかし、日本の風景は小さい。小さいというのは変な言い方だが、広大、壮大といった形容詞が当てはまらない。例えば、華厳の滝は清麗ではあっても豪快ではない。ナイアガラ瀑布に比べればいかにも小さい。宣伝文句につられて、国内の観光名所を訪れても、大体においてガッカリする。自然は変化に富むがのびがない。すぐ何かにぶつかってしまう。

 人間は、広大なものに接すると満足感を味わうものである。これは多分に本能的なものだ。大脳辺縁系に心地よい刺激を与えるのだろう。人間にも、恐竜、マンモスの遺伝子の痕跡が残っているのかも知れない。ロシア人がどうやってシベリアを自分のものにしたか知らないが、広大な平原をもてて幸せである。広いばかりが能じゃないというが、広いということ自体一つの価値である。それにシベリアは決して不毛の荒野ではない。

 広さにあこがれるのは日本人も同様だろうが、国土は狭く、自然は天与のものであるから、徒らに歎いても致し方ない。しかし、生活空間は違う。完全な人工物である。せめて、もっと道路を広くし、公園を作り、住宅を広くできないものだろうか。なにも、大邸宅に住みたいとは言っていない。私は、仕事柄、片麻痺、対麻痺の患者に接する。今後は車いすの生活で満足してもらいたいと思う患者も少なくない。しかし、積極的にそれを薦められない。住居が車いすの生活に適しているかどうかわからないのである。もちろん、そのためには屋内の改装が必要である。しかし、それにもまして必要なのは屋内の広さである。車いすで自由に動ける空間。福祉にはある程度の広さが必要である。我が国の住宅事情から見て、非現実的に聞こえるかも知れないが、これは重要である。病院で車いすの練習をして、退院してもやっていけるとなれば患者は安心するし、今後の生活に意欲も湧く。長期入院患者も減る。厚生省も医療費削減で喜ぶはずだ。

 シベリア大陸と車いすでは、三題噺めいて恐縮だがこれが私のシベリア紀行の結論である。

(1992年)

 

第37回 原稿執筆

 新聞のコラムで読んだことだが、トルコには「明日できることを今日するな」ということわざがあるそうだ。私はこれを読んで、内心得たりと思った。日本人は勤勉だから、「今日できることを明日にのばすな」というだろう。私はどちらかといえば、トルコ流である。本質的には怠惰な人間だからである。

 例えば、依頼原稿である。依頼原稿には締め切り日がある。締め切りまでは時間はタップリある。そのタップリあるということで安心して、そのままほったらかしにしておく。必ずしも、忙しいからではない。手を付ける気にならないのである。締め切り日だけは覚えているので、それが、日一日と近づいてきているのはわかっている。

 1ヶ月ほど前になると、あれこれ考えるようになる。文献はあれこれ、内容はこうこうと思いをめぐらす。一応構想ができあがって、それをメモ紙に整理でもしようものなら、もう完成した気分になって、またほったらかしにしてしまう。トルコのことわざ通り、明日から、さらに明日からと思っているうちに、瞬く間に締め切り日が近づいてくる。さすがに追いつめられた気持ちになって書き出すが、頭の中で考えていたことが、そのままスムーズに文章になるはずがない。なかなか筆が進まないのであるが、こんな残り少ない状況でも、あとは明日である。だから、不意の用事が入ってきて中断されると大変困る。もっと困るのは、書きながら構想そのものの欠陥に気づいた時である。なんとかこのまま逃げ切れないものかと一瞬考える。それがだめだとなると、うろたえる。日頃の不勉強がたたって、調べ直さなければならないことが多い。時間はないし、心理的に、上よ下への大騒ぎである。もっと早く始めておけばよかったと後悔しても始まらない。自業自得である。

 やっと間に合って(多少遅れることもあるが)、原稿を送るとホッとする。一杯やりたい気分になる。論文の出来不出来はあまり考えない。

 反省するに、今まで人生万事、このような調子でやってきた気がする。一気呵成というと聞こえがいいが、要するにズボラなのである。大きい時間の無駄をしたと思う。

 丹羽文雄は多作の小説家として知られている。彼が何かに書いていたが、執筆していて区切りのいいところにきてもやめない。かならず、次を書き出したところで筆を休めるそうである。やはり、執筆のコツというものがあるのだろう。

(1992年)

 

第38回 内科医と外科医

「武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり。思慮、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。美的のたしなみは(中略)教養ある人に不可欠ではあったが、武士の訓練上本質的と言うよりむしろ付属物であった。知的優秀はもちろん貴ばれた。しかしながら知性を表現するために用いられるw知xという語は、主として叡智を意味したのであって、知識には極めて付随的地位が与えられたに過ぎない。(中略)武士は本質的に行動の人であった。学問は彼の活動の範囲外にあった。彼は武士の職分に関係する限りにおいて、これを利用した」。

 これは、新渡部稲造の『武士道』(矢内原忠雄訳)から引用したものであるが、これによると、武士の修練はたいへん実際的で、もっぱら、剣道の練習に打ち込んでいたようだ。文武両道というが、文にいそしめば、文弱の徒として仲間の顰蹙をかった。昔、武士階級といえば社会のエリートであった。その教育がこのように刑而下的であったとは、ちょっと意外な感じがする。

 私には、外科医の心情には、武士のそれと相通じるものがあるように思える。内科医は、最近は様々な手技に手を染めるようになったが、基本的には、使うのは頭だけである。何やかにやと考えを広げていかないと間違いをおかしてしまう。一方、外科医ももちろん、頭を使わなければならないのだが、手を使えるので、もっぱら手に頼って、頭をなおざりにするきらいがある。手術という極めて具体的な行為を通してしかものを考えない。

 だから、内科医は年とともに経験を積んでくると、思慮深くなり、人間の奥行きも広くなる。複雑性も増してくる。外科医は相変わらず単純で、職人芸というと語弊があるが、一芸を極める世界に入っていくのではあるまいか。

 中国人と日本人の比較で、こんな話を聞いたことがある。二人が海辺で魚を釣っていたとする。釣るほどに、中国人は、この辺にはどのくらい魚がいるのだろうとか、もっと魚を釣るためにはあと幾人釣り師をつれてきたらいいだろうかとか、そんなことを考え始める。ところが、日本人は、もっと釣るためには針をどう変えたらよいか、どういう糸を使ったらよいか、もっとよい合わせ方はないものだろうか、等々の考えにとりつかれるようになるというのである。

 例えていえば、内科医は中国人的であり、外科医は日本人的である。誇り高き武士の末裔で、光栄ではあるが、年をとって、肉体的衰えと戦いつつ道を極めるのもたいへんである。禁欲的で何やら修行僧的雰囲気が漂ってくる。内科医は、そうはならない。なれてもせいぜい、生臭坊主だろう。

(1992年)

 

第39回 医者の教養

 ある有名な医者が亡くなる時の話である。もう末期で余命幾許もないことは、弟子たちにも分かっていた。でも、何かしないわけにはいかない。点滴は続けることにしたが、すすんで点滴をしに行く医者がいない。結局、受け持ちが因果を含められて病室にうかがい、点滴をしようとしたら「そんな意味のないことはやめろ」と患者にたしなめられて、すごすごと引き下がってきたそうである。

 この場合、患者も医者であったわけだが、もし、高名な人でも医者でなかったら、受け持ちもすごすごとは引き返さなかったであろう。何か理由をつけて点滴をし、患者も強くは逆らわなかったであろう。

 「病院とか医者というものは、病人の方ではその大部分が空虚な儀礼に堕しているのを見通してしまっているのに、まだいろんな魔術の効き目を信じていて、やたらもったいぶり、強制したがるから、やりきれない」。

 すでに死の床についたストラヴィンスキーが残した言葉である。シニカルな観察で、私もひそかに赤面せざるを得ないのだが、己の運命を悟り、従容として死につく人に対して医者は全く無力である。

 世の中には、人生の達人とでもいうべき人がいる。必ずしも、社会的地位とか学歴に並行しない。このような人が、死の病を得て入院してきた場合、すでに医者も見切りをつけているだろうが、私には、この人と語り合える何かがあるだろうか。私の人生の集大成を、もってしても太刀打ちできないのではあるまいか。といって、ありきたりの人生観を披露したところで、相手の顰蹙をかうだけである。

 時計屋は、時計の修理がうまければよい。時計の修理に関する限り、その人の人格は問われない。しかし、医者はそうもいくまい。医療技術を除けば、つまらない人間では困る。何か人間の「こく」みたいなものが必要である。教養とは人間知である。教養が必要なのは、何も医者に限ったことではない。しかし、医療は、生死が介在する一つの人間関係であるから、医者の場合、教養が職能上必要である。最近、なんでもマニュアルにするのがはやっているが、この教養をマニュアル化したら、およそ陳腐なものになってしまうはずである。自分で考えるしかないのであるが、医学の勉強ばかりしていたのでは難しいと思う。

(1993年)

 

第40回 魚雷の話

 第二次世界大戦当時、魚雷は海戦の主要兵器の一つであったから、各国ともその開発にしのぎを削った。

 日本が開発したのは酸素魚雷である。魚雷のスクリューはガソリンエンジンで回すが、ガソリンの燃焼には従来空気を用いていた。空気の代わりに酸素を使えば効率がいいはずだが、燃焼が烈しすぎて魚雷が燃えてしまう。日本は苦心惨憺し酸素魚雷を完成させ、魚雷の射程距離、スピード、破壊力は飛躍的に向上した。また、窒素ガスの泡を出す空気魚雷と異なり、酸素魚雷が排出するのは水に溶ける炭酸ガスであるから航跡がわからない。敵の水兵が甲板で日光浴を楽しんでいると、突如、ドカンときて、何がなんだかわけのわからないまま海の底、となってしまう。占領軍が日本に上陸したとき、血まなこになってこの魚雷の設計図を探したのもむべなるかなである。

 アメリカは航空魚雷である。雷撃機からの魚雷発射には高度の技術が要求された。機の姿勢、速度、進入高度をうまく調整しないと、魚雷は海面に当たったときこわれてしまう。日本海軍は血のにじむような猛訓練によってこの技術を習得した。ところがアメリカの雷撃機は目標に接近すると、適当なところで無造作に、材木でも投げ出すみたいに投下する。日本軍は当初、アメリカ軍が怖じ気づいて、早々に魚雷を捨てて逃げ出したものと思ったが、その魚雷が自分たちに向かってくるので仰天した。進路の制御装置を内蔵していたのであろう。
自身で方向を転換する意味では、ドイツの魚雷も同じである。魚雷が命中しないで目標を通り過ぎても、しばらくするとUターンして戻ってくる。そして、また外れると、また戻ってくる。目標附近でジグザグ運動するから命中率は格段に向上するし、相手はどこから攻撃されているか分からず大いにうろたえる。

 これらの魚雷の優劣を一概に決めつけられないが、それぞれのお国柄を反映しているような気がする。

 日本の魚雷は、確かに、性能では群を抜いていた。しかし、直進するだけである。だから命中率は訓練で磨いた腕次第である。魚雷自身が方向を転換するドイツ、アメリカの魚雷では日本ほど習熟した技術は必要なかったのではあるまいか。日本では、一発必中、為せば為るの精神主義が幅をきかせ、欧米では人間に完全無欠の操作技術を習得させるなど、土台、無理な話となる。こちらの方が科学的である。

 さて、脳外科領域にガンマ・ナイフという治療装置がある。現在日本で10台近く稼働しているが、この装置は取り扱いも難しくなく、患者には無侵襲で治療成績は並みの脳外科医以上である。はやとちりの脳外科医は、将来メシの食い上げになるのではないかと心配するほど、優秀な装置である。この装置の構造は、一言で言えば、多数のガンマ線が一点に集まるようにしただけである。虫めがねで集光をして焦点でものが焼けるように脳の病巣を放射線で焼く。コロンブスの卵と同じで、日本が開発できなかったのが不思議なくらい簡単である。

 日本人はこれはいいとなると、とことん追求する。一路邁進、何か直進魚雷的である。その結果、世界に冠たる酸素魚雷を作り出した。ところが、その頃、欧米では、すでに新しい発想の魚雷を作り出していたことになる。一路邁進も結構だが、少し立ち止まってあたりを見渡す心の余裕とか、もっと楽にやれないものかという「怠け心」が必要だと思う。そうでないとガンマ・ナイフのような装置は開発できない。

(1993年)


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